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傷の在処(其の壱)

実は、CIDPの話の続きはちっとも書けません。
この件について書くと、毎回例外なく、どどーっと疲れます。 思い出しただけで、そのときの感覚が蘇ってしまうみたいです。

そう考えると、忘れるってすごい機能ですよね。助かる。「時間が解決してくれる」って、実に受身で曖昧な解決法みたいだけど、実際のところそれがなかったら、生きていくのはかなりしんどいだろうと思います。

だけどそうやって、しまいこんで、忘れて、一見無かったことにしてしまっても、エネルギー保存の法則!みたいに、そのときの記憶はどこかに刻み込まれているわけです。で、忘れた頃に、そういう傷は、ときどき不可解な悪戯や悪さをする。だから、たまには倉庫の中や、押入れの中に風を通したり、お日さまの光を当ててやるように、振り返ってメンテナンスしてやったほうがいいかなぁ、なんて思ったりもします。

でも、ホントのところは、CIDPのことを書けない理由は、もうひとつ思い当たるのです。 たぶん私が自分が体験した病気について、ここであれこれ書くと、 それはもしかすると自分では意図しないうちに、「自分の病気を克服して、いまは治療家になってます!」 みたいなストーリーを、自分で紡いで演出してることになるんじゃないかと思うんです。 (えーっと、CIDPに罹患した話は捏造や創作ではなく、確かに事実なんですが、そのことをいまさらわざわざ大きな声で言いたくなかったりなんかするんだよなー、という意味です)

私はとことんへそ曲がりだからか、、、
なんだかそういうストーリーには、素直に乗れないのです。

だけど実際、私がお世話になったことのある治療家の先生方や、この世の中にたくさんいらっしゃる治療家さんたちには、 少なからず「難病を克服しました」とか、そこまでじゃなくても、 「病や苦労の体験を経て、この道に進みました」みたいなプロフィールをお持ちの方が少なくないはずです。さっきの言い草と矛盾するようですが、我ながら、やっぱり自分も病気しなかったら、やっぱりこの道には進まなかっただろうなぁ、とは思っています。

これって、いったいなんなんでしょうね???

たぶん、多くの人に共有されている治療家プロトタイプみたいなイメージがあるとしたら、それはきっと「自らも傷を負いつつ、人のために尽くす」というような意味を孕んでいるのかもしれません。だから「苦労人っぽい先生の方がいいわ」みたいな根拠の無い幻想って、たぶん私自身の中にもあると思うんですよ。(あー、でも私自身には他の判断基準がありますよ。念のため)

つまり、それはわざと意地悪な言い方をすれば、 「治療家たるもの、平和でハッピーで悩みもなくお気楽ではいけない!」とでもいうような意味に翻訳できたりなんかするんじゃないかとも思います。わかるんだけどね。確かにそれはある程度までは真実だと思う。だけど、それをあまりに突き詰めて求めすぎてしまうのは、ちょっとおそろしいことだ。

だって、この考え方をわざとデフォルメしてみると、極端な話、 「医療者たるもの、常に全身全霊を賭けて、身を挺して、治療にあたるべし!」みたいな意見になるんじゃないかと思います。たぶん、我々の中にはどこかにきっと、多かれ少なかれ、無意識的に、自動的にそういうイメージを思い浮かべて、求めてしまうような何かがあるのではないかしら。

しかしねー。。。

あー この話題、相当きわどいゾーンに踏み込んでおります・・・
とりあえず、ここでいったん切ります。

続きは今晩また。(というつもり)
by tamayura_tamayura | 2009-01-31 09:38 | 抽象的な話
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